自然とのつきあいの原点

 谷津干潟の周辺が埋め立てられたままの湿地とアシ原の状態で、住宅地もなくて公園化してない頃、高いアシ原の中をまっすぐ歩いているはずが途中で深い水たまりがあって迂回したりしてると、方向が全然わからなくなったりしたけど、あれは楽しかった。意識して自然観察をするようになってからの私の原点です。小さいころの下町の河原やただの雑草の原っぱを思い出しました。こういう場所って想像力を刺激すると思います。子供の頃は草地の中に自分の部屋を作ったり、ここの草地はヨーロッパここはアメリカこの水たまりは太平洋、なんて「ごっこ遊び」をしました。アーサーランサムの物語の中で、子供たちが丘をカンチェンジュンガと読んだり湖の端を北極と呼んで探検するのが、よくわかったなあ。まあ自然の規模は湖水地方とはくらべものにならないのですが。

谷津干潟は、夏になるとアオサが繁茂して臭ってきそうですね。もっと大人が先入観を与えなければ(過保護の現代ではこれが難しいかも)、小さい子供は結構こういうの平気だと思いますよ。又聞きの話ですが、某野鳥団体で谷津干潟(だったと思ったが)の目の前の小学校の生徒を対象に干潟で遊ぶ企画をやったそうです。干潟に入ってどろんこになって・・・子供達は楽しそうに遊んでいたとのこと。やはり小学校くらいの子供にとってはまず泥遊びしてカニをいじめてみたりするのが、干潟を身近に感じる第一歩であるべきでしょうね。いきなり採集しない立ち入らないで、双眼鏡や望遠鏡で遠くからのぞき見するのを面白いと思う子は、あまりいないだろうなあ。しかし実際問題として、周辺の子供達全部が干潟に入ったら、鳥たちの休息できるスペースもなくなるから、こういった体験をすべての子供にと言うのは無理でしょうね。現在は鳥の安息のために中にはいるのは禁止かな。

 私は東京の下町育ちですが、工場が建ち並び、変なにおいの煙が漂う荒川河川敷で遊んでました。私は小学校の時は東京の下町、中学校以降は東京郊外の育ちですが、自然観察の原点は採集や飼育です。もちろんどこにでもあるようなオオイヌノフグリみたいな草の押し花を作ったりアオムシを育てたりとかだけど。 ちなみに小学校の高学年で、六義園の池で飛び石を渡っていて落っこちたことがあります。、都会の公園でやるとちょっと恥ずかしい。しかし今でも水辺でミジンコや小魚やオタマジャクシを覗き込むのが大好きなので、足がずぶずぶとめり込むくらいだったら時々あります。

 ところで生き物が嫌いってのは(芋虫が嫌い、蛇が嫌い、蛾が嫌い、蝶が嫌い、中には鳥が嫌いなんて人もいる)どうしてなんでしょう。私には理解できない。もちろん毒蛇に手を出そうとか、クマをアップで見たいとかは思わないけれど、ほんの小さな昆虫でさえ死にそうに怖がる人は理解を超えています。実際はそういう人が結構いますよね。積極的に人を襲わない生物までなんでそんなに嫌わなければいけないのだろうか。肌がかぶれやすいので触りたくない生き物ってのはけっこうあるので、「いやだ」と言う気持ちが全然わからないわけじゃないけど、でもどんな動物もよく見ると一生懸命生きているのになあ。
 そういえば、職場の同僚の子供が幼稚園生だったころ、ふと気がついたら台所のゴキブリをつんつんして遊んでいたそうです。それを見たお母さん、すなわち同僚は「お願いだからやめて!」と叫んだそうですが、コキブリが嫌われるのは母親の悲鳴が原体験だったりして。私の母は別に生き物が特に好きでも嫌いでもなかったし、家族でも変な生き物まで大好きになったのは私くらいだけど、汚いという先入観はなかったかもしれない。

 まあゴキブリよりは、沖縄でトントンミーとたわむれている方がいいけど。

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