室生犀星のコウモリ

室生犀星の動物詩集という本が石川県金沢市の龜鳴屋(かめなくや)という自営出版社から発売されて、刺繍をデザイン化した表紙が気に入って(コウモリがあったので)購入しました。
http://kamenakuya.main.jp/%e5%ae%a4%e7%94%9f%e7%8a%80%e6%98%9f%e3%80%8e%e5%8b%95%e7%89%a9%e8%a9%a9%e9%9b%86%e3%80%8f%e3%80%80/
いろいろな生き物の短い詩があって、「灯とり虫のうた」とか「冬の蝿のうた」とか歌われている光景が好きです。コウモリは「かわほりのうた」というのがあって、これはちょっといまひとつかな。こちらで一部分だけ読めます。
https://popotame.com/items/6263a986a10275164d7a342f

室生犀星は、作品の中に時々コウモリがでてきます。短歌で
 あゝ暗きかなしき影を水にして蝙蝠とびぬ夕暮の河
というのがあります。(室生朝子編の「犀星の若き日の歌」に入っているはず)

「蝙蝠」という、そのものがタイトルになっている短編もあります。コウモリの話ではなくて、故郷の幼馴染みの娘が浅草の活動写真館で女給をしていいるのに再会し、やがて株主の女となったこの娘のストーカーと化していく話で、主人公が活動写真館へ通い詰めて「彼はそこのドアに近い椅子にいつも小さく薄暗く蝙蝠のやうに外套に包まれて座っていた。」とか、娘の後をつけていったら、「お春は突然に菊屋橋に出る廣い通りの溝際の暗い方をさして、素早く一疋の蝙蝠のやうに姿を消した。」とか、何カ所かコウモリの動作を喩えに使った表現があります。まあコウモリの動作をよく見ているのはわかります。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/968378

「しゃりこうべ」という短編では、髑髏の幻影を「いつだって晩にさえなれば形紙の中から抜け出した蝙蝠色をした姿を、おのれの住家の中に――飽き飽きしながらもその影を除くことのできないようにして座っているではないか」と表現しているけど、コウモリ色って何色を読者は連想するのでしょうね。私はアブラコウモリの翼が光りに透けたときの薄茶色を連想するけど、ひょっとして真っ黒と思う人もいるかも。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001579/files/53174_51205.html
萩原朔太郎は文学者を動物に例えたときに室生犀星のことを蝙蝠だといっています。「彼はいつでも、自分だけの暗い洞窟に隱れてゐる。彼は鷲や鷹のやうな視覺を持たない。けれども翼の觸覺からして、他の禽獸が知らないところの、微妙な空間を感覺して居る。すくなくとも彼だけの洞窟では壁の裏側に這つてる小蟲や、空氣の濕つぽい臭ひまで、殘る隈なく觸覺してゐる。彼は他の世界に出られない。そこでは盲目になるからである。しかし自分だけの世界に於ては、宇宙第一の智慧者である。」ってあまりいい意味とは読めない。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/59984_73859.html


室生犀星の短歌 星野晃一
明治
あゝ暗きかなしき影を水にして蝙蝠とびぬ夕暮の河

62 明治41年9月15日文庫 相馬御風選
室生朝子編の「犀星の若き日の歌」だけに記されている作品

城西大学女子短期大学部紀要 1 (1), 11-18, 1984-02
https://libir.josai.ac.jp/il/meta_pub/G0000284repository_JOS-KJ00000589014


室生犀星に就いて
萩原朔太郎
 たいていの文學者は、何かの動物に譬へられる。例へば佐藤春夫は鹿であり、芥川龍之介は狐であり、谷崎潤一郎は豹であり、辻潤は山猫の族である。ところで、同じ比喩を言ふならば、室生犀星は蝙蝠である。彼はいつでも、自分だけの暗い洞窟に隱れてゐる。彼は鷲や鷹のやうな視覺を持たない。けれども翼の觸覺からして、他の禽獸が知らないところの、微妙な空間を感覺して居る。すくなくとも彼だけの洞窟では壁の裏側に這つてる小蟲や、空氣の濕つぽい臭ひまで、殘る隈なく觸覺してゐる。彼は他の世界に出られない。そこでは盲目になるからである。しかし自分だけの世界に於ては、宇宙第一の智慧者である。 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/59984_73859.html


短編 蝙蝠
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/968378
日を経るに従って豊は毎日のやうに東京館の二階に通った。彼はそこのドアに近い椅子にいつも小さく薄暗く蝙蝠のやうに外套に包まれて座っていた。

と、お春は突然に菊屋橋に出る廣い通りの溝際の暗い方をさして、素早く一疋の蝙蝠のやうに姿を消した。

いつも蝙蝠のやうに彼方ゆき此方ゆきしたりしてゐた。

いつも蝙蝠のやうに東京館の壁ぎはに食附いていたおしげの亭主は、入れ違いに入って来て彼を見つけた。

しゃりこうべ
室生犀星
https://www.aozora.gr.jp/cards/001579/files/53174_51205.html

 電燈の下にいつでも座っているものは誰だろう、――いつだって、どういう時だって、まじまじと瞬またたきもしないでそれの光を眺めているか、もしくはその光を肩から腰へかけて受けているかして、そうして何時いつも眼に触れてくるものは、一いったい何処どこの人間だろう、――かれはどういう時でも何か用事ありげな容子ようすで動いているが、しかしその用事がなくなると凝然じっと座ってそして物を縫うとか、あるいは口をうごかしているとか、または指を折って月日の暦を繰っているかしている、――かれのまわりには白い障子と沈丁花のような電燈とが下っているだけだ。
 誰でもこんな姿を見たことがないか――あるいは五年も十年もさきから、いつだって晩にさえなれば形紙の中から抜け出した蝙蝠色をした姿を、おのれの住家の中に――飽き飽きしながらもその影を除くことのできないようにして座っているではないか――よく考えて見てもそんな人間に知り合いはないが、よくよく見ると見覚えのある毎日見る顔で、毎日見ているために何時の間にか忘れ果ててしまっているような顔付かおつきで、そうして急にはちょっとは思い出せない顔付――そういう馴れきった顔つきであるために、心には何も残していないようで、とうていその顔付から遁にげ出すことのできない宿命じみた蒼白い顔付――それが春夜にもなお電燈の下に座っている――。

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